
第20話「雨の通り道」
「今日は、ちゃんと話さなきゃいけないことがある」
誠の声はいつものように穏やかなのに、どこか張り詰めていた。
私は、背筋を伸ばしたまま息を殺す。
「……なに?」
誠はしばらく黙った。水のグラスを揺らし、光の反射を見つめている。
そして、重く口を開いた。
「楓……別れよう」
頭の中が真っ白になった。
「……え?」
声が震え、ほとんど聞き取れないほどだった。
誠は苦しそうに眉を寄せて、言葉を選びながら続けた。
「俺には、結婚する気がない。三年間一緒に過ごしてきて、好きだと思ったことは何度もある。でも……愛したことは、一度もないんだ」
「……そんな……」
胸が締めつけられて呼吸ができない。
「来月からマレーシアに転勤になった。いつ帰って来られるかも分からない。娘と元妻のこともある。楓に未来を約束できる余裕なんて、俺にはないんだよ」
「でも……でも、私たち……」
必死に言葉を探すのに、喉が詰まって出てこない。
誠は目を伏せたまま、小さく首を振った。
「本当にごめん。楓を大事にしたい気持ちはあった。でも……愛せないまま続けるのは、もっと残酷だから」
テーブルに沈黙が落ちた。
カトラリーの触れ合う音も、隣の席の笑い声も、遠い世界の出来事みたいに聞こえた。
私はただ、涙を必死に堪えるしかなかった。
泣いてしまったら、彼の言葉が「正解」になってしまう気がして。
「ありがとう。今まで一緒にいてくれて」
最後に誠がそう言って、立ち上がった。
椅子が床を擦る音が、妙に大きく響いた。
会計を済ませて、二人で店を出た。
外は冷たい雨が降っていて、アスファルトが黒く光っていた。
「タクシー呼ぶよ」
誠はスマホを操作して、やって来た車のドアを開けた。
「……ありがとう」
私の声は、もう掠れていた。
誠が差し出した手に導かれて、タクシーの座席に腰を下ろす。
その瞬間、心の奥で小さな希望が芽生えた。
——もしかして、このまま隣に座ってくれるんじゃないか。
——一緒に帰ろうって言ってくれるんじゃないか。
けれど、誠は運転手に行き先を告げると、静かに微笑んだ。
「……気をつけて帰れよ」
そして、ドアを閉めた。
「まっ……て」
言葉が喉から漏れたけれど、雨音にかき消された。
タクシーが走り出す。
窓の向こうに、雨に濡れた誠の背中がどんどん小さくなっていく。
その瞬間、堰を切ったように涙が溢れた。
声を殺して泣こうとしたけれど、無理だった。
嗚咽が込み上げ、胸の奥から爆発するように泣いた。
「やだ……やだよ……!」
タクシーの車内で、幼い子どものように泣きじゃくった。
外の雨も、頬を伝う涙も区別がつかない。
ただ、世界中に見捨てられたような孤独だけが、重く押し寄せてきた。