
第21話「二階の薄明かり」
タクシーが止まったのは、自宅マンションの下だった。
「つきましたよ」
運転手が少し申し訳なさそうに言う。
「渋谷……渋谷駅にお願いします」
震える声で言った。どこかに行きたかった。
このまま家に帰るのだけは耐えられなかった。
雨に濡れた窓ガラスから、見る街の景色は、歪んで、ぼやけて、滲んで、何だか自分の心みたいにぐちゃぐちゃに見えた。
見慣れたはずの渋谷の雑踏。
でも、雨に煙る街はぼやけて、見慣れた看板も遠い国の言葉みたいに読めなかった。
「……どこ、行こう」
タクシーから降りた私は、行き先なんて決めていなかった。
ただ気づけば、体は勝手にBAR1001へ向かっていた。
私がいつも泣きながらたどり着く場所。
唯一、誠以外に心を開ける人がいる場所。
びしょ濡れのまま、ドアを押し開けた瞬間。
「楓⁉」
カウンターの中にいた亮介が、グラスを落としそうになりながら飛び出してきた。
「だ、だいじょうぶ……」
そう言おうとしたのに、言葉が最後まで出なかった。
視界が揺れ、力が抜け、床に倒れ込んだ。
「楓っ!」
強い腕に抱きとめられる感覚。
その温かさに少しだけ安心して、私は意識を手放した。
——
目を開けると、見慣れない天井。
小さな蛍光灯の光が、やさしく滲んでいる。
体の下は柔らかい布団で、かすかに洗剤の匂いがした。
「起きた?」
低い声。振り向くと、亮介がタオルを手に座っていた。
「ここ……」
「俺の部屋。2階に住み込みで寝泊まりしてるんだ」
亮介は安心させるように笑った。
「ごめん、びしょ濡れのまま倒れて……」
「謝んなよ。あんな顔して入ってきたら、誰でも心配するって」
亮介はタオルでそっと私の髪を拭いた。
「……誠さんと、なにかあったんでしょ」
その声は優しかったけれど、心の奥を見透かされているようで、私は顔を背けた。
「ううん、大したことじゃ……」
「嘘。泣いた跡が残ってる」
頬を触れられた瞬間、堰が切れたように涙が溢れた。
「……私、どうしたらいいか分からないよ」
亮介は言葉を挟まず、ただ背中に手を回して抱きしめてくれた。
「大丈夫。今は泣け。泣いて、泣いて、それから考えればいい」
その声に、胸の奥に溜め込んでいたものが一気に崩れ落ちた。
私は子どものように亮介の胸に顔を埋め、声をあげて泣いた。
窓の外ではまだ雨が降り続いていたけれど、二階の薄明かりの下で、私は少しだけ息をつけた気がした。