
第24話「言えない名前」
涙で視界が滲む中、私はようやく言葉を絞り出した。
「……誠には……まだ、言えない」
亮介の手が、背中で優しく止まった。
「……やっぱり、そうなんだな」
私は首を振りながら、しゃくり上げた。
「今日ね……誠に言われたの。『別れよう』って」
亮介の手が一瞬、強く背中を押さえた。
「……そうか」
声は低かったけど、驚きと怒りを必死に抑えているのが分かった。
「理由は……結婚する気がないって。来月からマレーシアに転勤になるから、未来は約束できないって……。それで……『好きだったけど、愛したことは一度もない』って……」
言葉にした瞬間、胸が張り裂けるように痛み、嗚咽が溢れた。
「なのに……私はまだ誠が好きで……それが苦しくて……」
亮介は黙って、私を抱きしめた。
「泣けよ。無理に隠さなくていい。泣いてる方が、楓らしい」
私は胸に顔を押しつけ、子どものように泣いた。
雨の夜、タクシーのドアが閉じられた瞬間の絶望が鮮明に蘇り、涙は止まらなかった。
「誠が怖いんじゃなくて……」
嗚咽の合間に、必死で言葉を紡ぐ。
「……本当は、失うのが怖いの。まだ、誠を好きだから……」
亮介はしばらく黙って聞いていた。
そして、小さく息を吐き、私の頭を軽く撫でた。
「……俺にできること、ある?」
その一言が、胸に真っ直ぐ刺さった。
彼の目は、答えを急がず、ただ待っている。
追い詰めるでもなく、見放すでもなく。
私は首を横に振った。
「……分からない。分からないよ……」
「じゃあ、分からないままでいい」
亮介は優しく笑った。
「俺はここにいる。だから、頼りたくなったら頼れ。それでいいだろ?」
その優しさにまた涙があふれた。
秘密はまだ胸に抱えたまま。
でも、この夜だけは、亮介の隣で安心して泣いてもいい気がした。
窓の外では、雨が少しずつ小降りになっていた。