
第52話「失われた居場所」
昼過ぎ、パソコンの画面を見つめているうちに、視界がふらりと揺れた。
冷や汗が背中を伝い、胸の奥から込み上げてくる吐き気に息が詰まる。
「草野さん、大丈夫ですか!」
同僚の声が響いた瞬間、足元から力が抜け、私は机にすがりついた。
気がつけば、また会社の医務室に運ばれていた。
真っ白な天井と消毒液の匂い。
一週間前と同じ光景が広がっている。
やがてドアが開き、上司が心配そうに顔を覗かせた。
「……草野さん。君、大丈夫なのか? 一度ならまだしも、短い間に二度も医務室に運ばれるなんて」
その視線は純粋な心配であると同時に、どこか探るようでもあった。
私は布団の上で唇を噛み、迷った。
——明日は契約更新の面談。今伝えたら、どうなる?
でも、このまま隠し続けることなんてできない。
勇気を振り絞り、声を震わせながら言った。
「……すみません。実は……妊娠しているんです」
上司の目が一瞬、大きく見開かれた。
驚きと、困惑と、どう言葉を返せばいいのかという戸惑いが入り混じった表情だった。
「……そうだったのか。体調が悪いのはそのせいか」
短い沈黙のあと、彼はため息をついた。
「わかった。とにかく、まずは体を大事にしなさい」
そう言って部屋を出ていったが、その背中には明らかに迷いが漂っていた。
——そして翌日。
派遣会社から電話が入った。
「草野さん、申し訳ありません。今回の契約更新についてですが……先方から、今回は更新なしとのご連絡をいただきました」
耳に届いた瞬間、世界が音を失った。
「……更新、なし?」
震える声で問い返すと、事務的な返答が返ってくるだけだった。
電話を切ったあと、私は机に置いたスマホを見つめながら、ただ呆然とした。
昨日まで当たり前のようにあった居場所が、もう私にはない。
——私は、どうすればいいのだろう。
お腹の奥にいる小さな命を意識するほどに、未来が霞んで見えなくなっていく。
冷たい現実だけが、私を静かに突き落としていた。