
第35話「もう少しだけ」
時計の針が日付を越えていることに気づき、私は小さく息を呑んだ。
涙の跡も乾き、フルーツの容器はほとんど空になっている。
気がつけば、随分と長い時間、亮介と一緒に過ごしていた。
「そろそろ帰るよ」
亮介が立ち上がり、ジャケットを手に取った。
その声は穏やかで、何も特別な色を帯びてはいない。
まるで常連客の家に顔を出したあと、また店に戻るときのような自然さだった。
胸が急に寂しさでいっぱいになった。
この部屋から彼がいなくなったら、また暗闇に取り残されてしまう気がした。
誠の影と、自分の孤独だけに押し潰される夜に戻ってしまう。
「……亮介」
声が震えていた。
彼はドアに手をかけたまま振り返る。
「ん?」
私は唇を噛み、ほんの一瞬ためらったあと、小さな声で言った。
「……もう少しだけ、そばにいて」
亮介の目が少しだけ見開かれた。
けれどすぐに表情を和らげ、苦笑いを浮かべた。
「楓は、人を頼るのが下手だな」
そう言いながら、彼はドアから手を離し、再び部屋に戻ってきた。
ソファに腰を下ろし、軽く背もたれに体を預ける。
「じゃあ、ちょっとだけな。眠れるまで」
安堵の波が全身に広がった。
私は彼の隣に座り、肩にそっと頭を寄せた。
彼は何も言わず、そのまま黙って受け止めてくれる。
外では風が窓を揺らし、遠くの街のざわめきがかすかに聞こえていた。
けれど部屋の中は静かで、心臓の鼓動が近くに響いていた。
——これが誠だったら。
亮介の優しさに甘えている自分の勝手さが胸を刺した。
誠からは一度も連絡がなく、声すら聞けない寂しさと、置き去りにされた悔しさが心を締めつける。
そして、妊娠しているという事実が頭をよぎるたび、全身に冷たい不安が広がった。
生まれてくる命を守れるのだろうか。
一人で抱えきれるのだろうか。
この先、私はどんな未来を選んでいくのか。
派遣で不安定な仕事、行き場のない恋心、誰にも頼れない孤独。
すべてが押し寄せてきて、視界が滲む。
——私の人生は、これからどうなってしまうんだろう。
その莫大な不安に押し潰されそうになりながらも、私はただ、隣にいる亮介の温もりに頼るしかなかった。
瞼を閉じると、涙が頬をつたって、彼のシャツの布地に静かに染み込んでいった。
その瞬間、亮介の手がそっと動いた。
私の肩に触れ、優しく、ゆっくりと撫でていく。
何も言わず、ただその温もりで「ここにいる」と伝えてくれるように。
その優しさに、また新しい涙が溢れた。