
第17話「一年目の横顔」
誠と出会ってから、一年が経った。
最初は大人の余裕を前にして、敬語でしか話せなかった私も、今では自然に彼の名前を呼び捨てにできるようになっていた。
「ねぇ、誠」
カフェの窓際、午後の日差しがテーブルを明るく照らす。私はカップを両手で包み込みながら口を開いた。
「正直さ……仕事、全然楽しくないんだよね」
「うん?」
誠は本を閉じ、私を見つめる。
「派遣で事務やってるんだけど、毎日コピーとかデータ入力ばっかりでさ。誰がやっても同じことばかり。意味あるのかな、って思っちゃう」
誠は小さくうなずいた。
「楓がいるから回ってる部分もあるんだよ。表に出なくても、ちゃんと価値はある」
「……そう言ってくれるのは嬉しいけどさ」
私は唇を噛んだ。
「ほんとは辞めたいんだよね。周りは結婚して家庭に入っていく子もいるし……。私ももう結婚に逃げたいって思ってるのかも」
誠は、少しだけ笑って言った。
「逃げたい時は、逃げたっていいんだよ。でも……結婚そのものに逃げるんじゃなくて、“誰と一緒に逃げたいか”を大事にすればいい」
その言葉に、胸が熱くなった。
「……ズルいなぁ」
「何が?」
「そんな風に言われたら、ますます好きになっちゃうじゃん」
誠は少し照れくさそうに笑い、コーヒーカップを口に運んだ。
私は意を決して切り出した。
「誠さ、もしさ……この先も一緒にいたら……。結婚とか、考えたりしないの?」
彼の手が一瞬止まる。
視線を外して、グラスの水を指でなぞりながら答えた。
「……正直、未来のことを語るのは苦手なんだ。期待させて、裏切るのが一番怖いから」
「……前の結婚のこと?」
「そう。娘のこともあるし、元妻のこともある。だから、結婚の話をされると、つい黙っちゃう」
「……そっか」
分かっていたはずなのに、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
誠はすぐに私の手を握って、やさしく微笑んだ。
「でもな、楓と一緒に過ごす時間は、ちゃんと大切に思ってる。それは嘘じゃない」
その瞳がまっすぐで、涙が出そうになる。
——未来を語れない人。
——でも、今を全力で大事にしてくれる人。
その矛盾が苦しいのに、もうはっきり分かってしまった。
私は、この人が好きだ。
帰り道、夜風に吹かれながら私は思った。
「結婚に逃げたい」気持ちと、「誠と一緒に生きたい」という気持ち。
どっちも本当で、どっちも強くて、どうしていいか分からなかった。
でも、それでも私は彼を好きでいる。
それだけは確かだった。