
第16話「忘れない朝」
私の家で飲みませんかと勇気を振り絞って言った私を
誠は驚いたように目を瞬き、それから柔らかく微笑んだ。
「……いいの?」
その問いかけに、私は小さくうなずくことしかできなかった。
タクシーに揺られながら、胸の鼓動が早くなる。
誠は何も言わず、ただ窓の外を眺めていた。
沈黙が怖いはずなのに、不思議と心地よい沈黙だった。
部屋に入ると、誠はいつもと同じ優しい仕草でコートをハンガーにかけてくれた。
「思ったより……落ち着く部屋だね」
そう言って微笑む顔に、私の緊張が少しだけほどけた。
二人で缶ビールを開け、軽く乾杯した。
けれど、味はほとんど分からなかった。
頭の中は、誠のことばかりでいっぱいだった。
沈黙のまま時間が流れ、視線が重なる。
その瞬間、胸が張り裂けそうなくらい熱くなった。
「……楓」
名前を呼ばれるだけで、涙が出そうになる。
次の瞬間、誠の温かい腕が私を包み込んでいた。
キスは、優しくて、切なくて。
気づけば、私は自分からも誠に応えていた。
ずっと抑えていた想いが、溢れ出すように。
その夜、私は誠と初めてひとつになった。
不安や迷いもあったけれど、それ以上に、彼のぬくもりに救われていた。
「愛を信じるのが怖い」と言った彼が、それでも私を大切に抱きしめてくれている。
その事実だけが、心の奥に深く刻まれた。
朝の光がカーテンの隙間から差し込む。
ベッドの隣で眠る誠の寝顔を見つめながら、私は静かに思った。
——また、依存してしまうのかな。
——それでも、もう離れられない。
心の中でそうつぶやき、彼の腕の中で、もう一度目を閉じた。
カーテンの隙間から、柔らかな朝の光が差し込んでいた。
ぼんやりと目を覚ますと、隣には静かに眠る誠の寝顔があった。
大きな体に抱かれて眠ったはずなのに、不思議と窮屈さはなくて、安心感だけが残っていた。
胸の奥にまだ余韻のような温もりが漂っている。
しばらく見つめていると、誠が目を開けた。
「……おはよう」
低く少しかすれた声に、思わず胸が跳ねた。
「おはよう」
反射的に敬語を忘れてしまい、慌てて笑う。
「あ、おはようございます」
誠が小さく笑いながら言った。
「これからは、敬語は、なしで。」
ゆっくりと私の頭を撫でる大きな手が優しく私を包み込む。
「楓とこうして朝を迎えるなんて、思ってもなかった」
その言葉は自然で、けれど胸の奥にじんわり沁みた。
「……私も、です」
「あ、ほらまた敬語」
誠は、小さく笑いながら、髪の毛を撫でてくれた。
本当は「嬉しい」と言いたかったけれど、声にならなかった。
ベッドから起き上がろうとすると、誠がそっと腕を伸ばし、私の手を取った。
「無理しないで。まだ少し、ここにいよう」
その優しい力に、また心がほどけていく。
しばしの沈黙。
時計の秒針の音と、遠くの車の音だけが部屋を満たした。
彼の何気ない言葉に、涙が込み上げそうになる。
愛を信じられないと苦しんできた二人。
けれど、この静かな朝の光の中で寄り添うだけで、少しずつ心がほぐれていくのを感じていた。
誠は日頃の疲れがあるのか、気がつくと、また眠っていた。
私はそっとベッドから出て、キッチンに立ち、冷蔵庫から卵と牛乳を取り出した。
その音で、誠が目を覚ました。キッチンに立つ私を優しい眼差しで見つめている。
「簡単ですけど、朝ごはん作りますね…じゃなくて…作るね」
「へぇ……楽しみだな」
フライパンの音、バターの香り。
二人で食べる卵焼きとトーストは、特別なご馳走に思えた。
「美味しいよ」
そう微笑む誠を見て、胸が熱くなる。
——こんな朝が、ずっと続けばいいのに。
けれど同時に、不安も胸を締め付けていた。
彼には娘がいる。元妻もいる。
私だけが彼を独占できるわけじゃない。
幸せと不安が交互に押し寄せる。
それでも、この朝を、私は忘れないと思った。