
第70話「押し寄せる想い」
涙をこぼす私に、亮介は慌ててポケットからハンカチを取り出し、差し出した。
「ほら、バーの常連サービス。泣いたら一枚無料」
わざと明るい声で冗談を言う。
私はくすっと笑いかけたが、喉の奥が詰まって声にならなかった。
それでも、彼が必死に空気を和らげようとしているのは伝わってきた。
「元気出せよ。楓は一人じゃないからさ。俺もいるし、マスターだっている。ほら、常連ポイント二倍くらい付けとくよ」
亮介は照れ隠しのように軽口を叩く。
——ほんとは、帰ってほしくない。
——誠を失って、やっと少しずつ呼吸ができるようになったのに。
——なんで、みんな……私からいなくなるの。
胸の奥で弱音が渦巻く。けれど、それを口に出すことはできなかった。
私は深く息を吸い込み、無理に笑みを作った。
「……亮介。山形に帰るんでしょ。酒屋を継ぐんだよね」
彼は驚いたように目を見開いた。
「いいと思うよ。家族のために頑張るの、亮介らしいし……かっこいいと思う」
声が少し震えたけれど、なんとか言葉をつなげた。
亮介は視線を落とし、頭をかきながら小さく笑った。
「……楓に、そう言われると……なんか照れるな」
少し間を置いて、彼は真剣な顔になった。
「でも……正直、まだ分からないんだ。酒屋を継ぐのが本当に俺の道なのか、それともここに残るべきなのか……迷ってる」
私が目を見開くと、亮介は続けた。
「それに……楓を一人にしていいのかって思うと、不安でさ。大丈夫かなって……」
その言葉に、胸の奥で押し殺していた感情が大きく揺れた。
嬉しさと切なさが入り混じり、喉の奥が熱くなる。
私は笑顔を崩さないよう必死に頷いた。
「……大丈夫だよ。私は私で、なんとかするから」
亮介は眉を寄せ、少し首を傾げた。
「……なんとかって、なんだよ」
優しい声色で言いながら、私の目をまっすぐ見つめる。
「一人よりも二人いた方がいいだろ。無理して抱え込むなよ」
その言葉が胸の奥まで届き、涙が込み上げそうになった。
けれど私は必死に唇を噛みしめ、ただ小さく頷くしかなかった。