
第46話「隠された決意」
夜が更け、店内は静まり返っていた。
楓は2階の亮介の部屋で眠っている。
階段の下にランプの柔らかな光が灯り、マスターが紙袋を手に帰ってきた。
「ただいま。買い出しに少し時間がかかってしまいましたよ」
落ち着いた声が店内に響く。
亮介は軽く頷き、手元のグラスを揺らした。
「マスター……少し、話をしてもいいですか」
いつも軽やかな亮介の声に、珍しく重さがあった。
マスターは袋を棚に置き、静かにカウンターへ腰を下ろした。
「ええ、もちろん。……どうしましたか」
亮介はしばらく沈黙し、氷がグラスの中で溶ける音を聞いていた。
やがて深く息を吐き、ぽつりと口を開いた。
「……実は、このバーを辞めるんです。
実家の山形に戻って、親父の酒屋を継ぐことになりました」
マスターの目がわずかに見開かれたが、驚きよりも納得に近い色があった。
「そうでしたか……。ついに、その決断をされたのですね」
「はい。東京での暮らしは楽しかったし、この店も大切な場所になりました。
でも、親父の体調のこともありますし……残り二週間で、東京を離れることになりそうです」
マスターはゆっくりと頷いた。
「そうでしたか……。きっと、苦しい決断だったのでしょう」
亮介は視線を落とし、グラスを揺らした。
「……楓ちゃんには、まだお話ししていないのですね?」
マスターの声は、静かだが確信を帯びていた。
「……はい」
氷の音が答えの代わりになった。
マスターは少し間を置き、穏やかに言葉を重ねた。
「私は長くカウンターに立ってきましたから、人の心の揺れには敏感なんです。
あなたと楓ちゃんの間に、どんな感情が芽生えているのか……見れば分かります」
亮介は口を閉ざしたまま、グラスの底を見つめた。
「伝えないまま去ってしまえば、楓ちゃんはまた大切なものを突然失ったように感じてしまうでしょう。
その痛みを想像すれば……やはり、きちんと伝えてあげるべきだと私は思います」
静かな店内に、マスターの声が優しく響いた。
その言葉は説得ではなく、心にそっと寄り添う助言だった。
亮介は苦笑を浮かべ、グラスを置いた。
「……やっぱり、マスターには全部お見通しですね」
「ええ。私はただ、あなた方の背中を見ているだけです。
けれど、残された二週間をどう過ごすかは……亮介さん、あなた自身が決めることです」
亮介は深くうなずき、グラスの酒を一気に飲み干した。
その瞳には、迷いと同時にわずかな決意の光が宿っていた。