
第76話「重なる苦しみ」
誠は、私の涙が落ち着くのを待つように、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと椅子から立ち上がり、窓の方へ歩いていく。
「……楓。俺な、もう一つだけ話しておきたいことがある」
背中越しに落ちる声は、少し掠れていた。
「……娘のことだ」
私は息をのんだ。
誠の口から「娘」という言葉が出るたび、胸の奥がざわつく。
「元奥さんが亡くなって、俺が引き取ることになった。小三の子でな……強がってるけど、夜になると泣いてばかりだ。母親を呼んで、眠れなくなる」
誠はゆっくりと振り返り、私を見た。
その目は優しさと苦しさが入り混じっていた。
「仕事もある。娘もいる。……正直、いっぱいいっぱいだ。だから、楓のことをちゃんと守れるのか、自信が持てない」
私はシーツをぎゅっと握りしめた。
言葉が出てこない。
誠は小さく笑みを浮かべたが、それは悲しみを隠すような笑みだった。
「……俺は弱いんだよ。本当は。強いふりをして、全部抱え込んでるだけだ」
その姿に胸が痛む。
私は、誠が大人の余裕に見せかけて、どれほど自分を追い込んできたのかを初めて思い知った。
「楓……お前をまだ好きでいる自分がいる。だけど、それ以上に、自分のことで精一杯な自分もいる」
静かな声が、心を締め付ける。
私は涙が溢れそうになるのを必死でこらえた。
誠は短くため息をつき、扉の前に立った。
「……だから今は、答えを出せない。すまない」
そう言って、病室を出て行った。