
第31話「声の向こうに」
翌朝、重い体を無理やり起こして、私は出勤の準備をした。
鏡に映る顔は青白く、口紅を引いてもごまかしきれない。
会社に行きたくない気持ちが胸を押しつぶすように広がったけれど、休む勇気もなく、私は電車に乗り込んだ。
オフィスの空気はいつも通りざわざわと落ち着きがなく、書類の山とパソコンの画面に囲まれながら、私は黙々と仕事をこなした。
だけど午前中から胸の奥がむかむかして、吐き気を必死に抑える時間の方が長かった。
「大丈夫? 顔色悪いよ」
同僚に声をかけられ、思わず笑顔を作る。
「ちょっと寝不足で……」
自分でも情けない言い訳を口にしながら、心の中で必死に祈っていた。
——早く一日が終わってほしい。
何度もトイレに駆け込みそうになりながらも、私はどうにか定時まで耐え抜いた。
帰りの電車に揺られながら、誠のことばかりが頭を占める。
あの夜、別れを告げられた言葉。
「好きだったけど、愛したことは一度もない」
そのフレーズがまだ耳にこびりついて離れなかった。
——それでも、話したい。
誠の声を聞きたい。
この気持ちをどうにか伝えたい。
夜、部屋の明かりを落とし、スマホを手に取った。
指が震えながらも、誠の番号を押す。
心臓がバクバクとうるさく鳴る。
コール音が何度か続いたあと——
「だれですか? パパは、お風呂だよ。」
電話口から聞こえたのは、誠の声ではなく、幼い少女の声だった。
「……え?」
私は息を呑んだ。
誠の娘。——あの、前の結婚でできた小学三年生の女の子。
「……ま、まちがえました!」
私は慌てて声を上げ、通話を切った。
スマホを握る手が汗でびっしょりになっていた。
全身から力が抜けて、ソファに崩れ落ちる。
「……どうして、娘さんが誠のところに……」
頭の中で空想が広がっていく。
——元奥さんの体調が悪くなって、しばらく預かっているのかもしれない。
——もしかしたら、病院に入院していて、代わりに誠が面倒を見ているのかもしれない。
——それとも、娘が「パパと一緒にいたい」と泣きついてきたのだろうか。
考えれば考えるほど、胸の奥が苦しくなった。
誠がどんな状況にいるのか、私は何ひとつ知らない。
なのに、こうして勝手に想像して、勝手に不安になって、また涙を流している。
「……私、何やってるんだろう」
声に出すと、嗚咽に変わっていった。
誠を忘れたいのに忘れられない。
どこまでも自分を縛りつける未練に、私はソファに顔を伏せて泣き続けるしかなかった。