
第43話「残された時間」
誠は最後の一口をグラスに残したまま、ゆっくりと立ち上がった。
背広の肩に影を落とし、重い声で言う。
「……娘が待ってる。今日は、もう帰らないと」
その言葉に誰も逆らえなかった。
彼の背中から漂う孤独と責任の重さは、私に「行かないで」と言わせる隙を与えてはくれなかった。
「お疲れさまです」
亮介が努めて明るい声をかけた。
誠はわずかに頷くだけで、視線を合わせず、バーのドアを押して外へ出ていった。
ドアベルが寂しげに鳴り響き、残された空間に静寂が落ちる。
マスターはしばらく私の顔をじっと見つめ、ふっと息を吐いた。
「……ちょっと買い出しに行ってくる。亮介、頼んだ」
そう言ってコートを羽織り、静かに店を出て行った。
あまりにも自然な仕草だったけれど、それが気遣いであることは明らかだった。
扉が閉まった瞬間、私の心の糸がぷつりと切れた。
「……っ」
胸の奥から堰を切ったように涙が込み上げる。
必死に唇を噛んで抑えようとするのに、こぼれる滴は止まらなかった。
「楓……」
亮介の声が、すぐそばで響いた。
私はカウンターに両手をつき、震える体を支える。
でも、足元は揺れて、今にも崩れ落ちそうだった。
「大丈夫じゃない……っ」
絞り出すように吐き出した瞬間、視界が滲み、世界が歪んでいった。
そのすべてを、亮介の腕だけが受け止めてくれていた。