
第53話「迷いの扉」
契約更新の打ち切りを告げられた日の夜、私は街の明かりに紛れるように歩いていた。
どこへ向かえばいいのか分からず、気がつけばいつもの路地に足が向いていた。
——BAR 1001。
見慣れた扉の前に立つと、冷たい夜風が頬を撫でた。
中からは低く流れるジャズの旋律と、グラスが触れ合うかすかな音。
扉一枚隔てた向こうに、亮介とマスターがいる。
「……でも」
私は足を止めた。
今日は笑顔で入っていける自信がなかった。
契約を切られたこと、職を失った現実、妊娠を抱えたまま未来が真っ白になった不安。
全部を抱えて、この扉を開けたら、きっとまた泣いてしまう。
それでも、帰りたくなかった。
ひとりで部屋に戻れば、静けさが胸を締め付ける。
誠の残像と、更新されなかった現実が頭の中でこだまするだけだ。
——扉に手をかけるか、引き返すか。
心の中で天秤が揺れ続ける。
目を閉じれば、亮介の笑顔と、マスターの落ち着いた声が浮かんでくる。
あの空間に入れば、少なくとも今夜だけは心が温まるはず。
「……どうしよう」
小さく呟き、私は扉の取っ手を見つめた。
冷たい金属が、震える手を待っているように光っていた。