
第54話「侵入する影」
震える手で扉を押し開けた瞬間、ふわりと懐かしい香りが胸に広がった。
低く流れるジャズ、グラスの澄んだ音、木のカウンターに反射する柔らかな灯り。
——ここは私を救ってくれる場所。そう思いたかった。
「お、楓。来たんだな」
カウンター越しに亮介が笑顔で手を振った。
その顔を見ただけで少し肩の力が抜けそうになる。
けれど、その隣に座る人物を目にした瞬間、心臓が強く跳ねた。
朝にぶつかった、あの少女——。
制服に似たシンプルな服装で、グラスにはジュースが入っている。
両手でストローをくるくる回しながら、無邪気に笑っていた。
「亮介ー、この前の話の続き聞かせてよ!」
「はいはい。落ち着けって」
亮介も自然に笑い返している。
そのやり取りは、まるで昔から知り合いのように親しげだった。
私は一歩、足を止めた。
胸の奥がざわめき、空気が重くのしかかる。
彼女は誰なのか。どうしてこんなに自然に亮介の隣にいるのか。
「いらっしゃい、楓さん」
マスターの落ち着いた声が響き、我に返った。
「今日は寒いですから、まずは温かいものでもどうですか」
「……はい」
かろうじて答えながらカウンターに腰を下ろす。
少女の明るい声と亮介の笑い声が、耳の奥に突き刺さる。
私はジュースの氷をかき混ぜる音にさえ嫉妬してしまいそうで、
グラスに視線を落とすしかなかった。