
第61話「一番大切なもの」
朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。
枕は涙で湿っていて、瞼は腫れぼったく重たい。
それでも私はスーツに袖を通し、足を前へ運んだ。
——あと一ヶ月で、この仕事も終わる。
契約更新が打ち切られた現実は、昨日から頭を離れない。
派遣の契約が切れたら、私は無職になる。
そんな中で妊娠を抱えたまま、どうやって生きていけばいい?
「産むのか、それとも……」
心の中で呟くだけで、胸が詰まる。
シングルマザーとして子どもを育てる勇気なんて、今の自分にはない。
けれど、小さな命を諦めることもできない。
仕事も、未来も、愛も、すべて手の中からこぼれ落ちていくようだった。
電車に揺られながら、私は吊り革を握りしめていた。
隣の席では、若い母親が小さな子どもを膝に抱いて微笑んでいる。
その光景が、胸の奥を刺した。
(私には……無理だ。あんなふうに笑える自信なんてない)
そう思った瞬間、視界が急に滲んだ。
耳鳴りがして、足元の感覚が薄れていく。
「大丈夫ですか!」
周囲の声が遠ざかり、体が傾いた。
そのまま、私は暗闇に沈み込んでいった。
次に目を開けたとき、そこは病院の天井だった。
消毒液の匂いと機械の音が、ぼんやりとした意識を現実に引き戻す。
医師が穏やかな声で言った。
「草野さん、なんとか赤ちゃんは無事です。ただ……危険な状態でした。流産しかけていたんです」
心臓が止まったように、呼吸が乱れる。
「今は持ち直しましたが、これ以上強いストレスや無理が重なれば、本当に命に関わります。どうか、自分に問いかけてください。あなたにとって、一番大切なものは何か」
医師の言葉は、静かに、けれど鋭く胸に突き刺さった。
頬を伝う涙を止められない。
誠のことも、亮介のことも、仕事のことも……全部がぐちゃぐちゃに絡まる中で、ただ一つだけはっきりした。
——私の中にいる、この小さな命。
まず守らなければならないのは、他の誰でもない、この子だ。
私は震える手で腹にそっと触れ、深く息を吐いた。